国道58号を北上、読谷村へ
11月12日、天気は良好。まず、先般、夫が訪ねていない読谷村(ヨミタンソン)に出かけることにした。私は、沖縄地上戦の端緒、1945年4月1日アメリカ軍の上陸地点が那覇ではなく、読谷村のどんなところだったのか知りたいと思った。沖縄には鉄道というものがない。広くても島であることから当然のように思っていたが、あとで、教えてもらったように、それには理由があった。そこで、私たちの旅にしては珍しく、機動力のある貸切りの車をホテルに手配してもらった。
9時半出発、Kさんという運転手さんは、半そでのかりゆしを着てあらわれた。5時間の予定で、夫は回りたい場所、主に戦跡なのだが、印をした地図を手渡した。南風原生まれで、いまも住んでいるKさんの運転と案内は、実に丁寧で詳しかった。観光案内書では知ることのできない、地元ならではの情報や気持ちを伝えてくれるので、私たちにとっては、とても新鮮で刺激的にも思えた。
国道58号線を北上、嘉手納町に入ると、Kさんは、右側に延々と続く嘉手納米軍基地の様子を話しながら、まったく右折ができない道路を嘆くとともに、基地の沿革、現状をかいつまんで話してくれる。ほとんど初めて聞くことばかりだ。なんということだろう、メモを取りながらしきりに思った。
説明を受けている車窓の施設を撮影しようとしても追いつかず、あきらめてしまった。1944年に嘉手納村に建設された中飛行場が、沖縄戦の跡アメリカ軍に占領されたまま、拡張が続いた。嘉手納町の83%をパセント占めているのが現状である。この58号線は基地があるため右折ができないから、渋滞も激しいという。そして、道路は、不発弾処理のためよく通行が禁止になるそうだ。さらに、鉄道工事ができないのも、この基地があるためだという。沖縄では1944年10月10日の那覇空襲、1945年3月に始まる艦砲射撃や地上戦がなされた地域での開発にあたっては、この不発弾と遺骨がどこから出てきても不思議はないという。走る車の正面を米軍の航空機が低空で飛ぶ。Kさんは、たちどころにその機種と性能を説明してくれる。嘉手納基地配備の軍用機のいろいろ・・・F-15、F-22、P3C、空中給油機、・・・、なかなか呑み込めないのが、正直なところだった。知っているのは自衛隊の下総基地で見たP3Cくらいである。わが家の上空を500mに満たない低空で飛んでいることもあるからである。左手も基地となり、芝生に覆われた小さな山が続く。これは燃料貯蔵庫だそうで、上空から標的にされないようになっているそうだ。また、嘉手納基地の10分の9は民有地だが、沖縄独特の一見、石の家屋のも見える立派な大きなお墓が散在しているのがわかる。特定の日にしか開放されないというから、嘉手納の人々は自由に墓参りもできないことになっている。
基地内には小学校から大学まであり、黄色いスクールバス90台が運行されている。写真の中央に黄色いバスが並んでいた
これは、拝借した写真
これは、車窓から見た燃料貯蔵庫
これも車窓から、基地内に家のように見えるのは石のお墓である
「米軍上陸の地」へ
最初に車を降りたのは、北谷町砂辺、米軍基地関係者が住むマンションという、どれも外壁が肌色で、あまり生活感のない建物が続く道をぬってたどり着いた海岸で、「砂辺の浜之歌碑」があった。沖縄の民謡界の中心人物という喜屋武繁雄作詞作曲の「砂辺の浜」という歌の碑であった。さらに、海岸の洞窟前は、「渡具知泊城」(トゥマイグシク)の標識が立つ、王国時代の「按伺」、本土でいえば地方豪族に当たる人の城跡で、こういう城は全島で200くらいはあったという。海岸の岩場の道ならぬ道を進めば途中では、基地内に見かけた墓とは違う、西向きの小さな祠のような墓のいくつかに出会った。
渡具知泊城
そして、つぎに向かったのが「米軍上陸の地」である。1945年4月1日、米軍が沖縄本島に初めて上陸した海岸として、児童公園を経てのぼった高台に「上陸の地」としての碑が建てられている。この上陸を皮切りに、約18万3000人、総勢55万の兵力、各種戦艦1300隻以上が投入されたとある。多くの住民は、海岸の岩場にできた「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞を、防空壕代わりにして逃げ込み、日本軍は、太刀打ちできる兵力もなく、無抵抗に近く、ただちに米軍に占領された。日本軍が建設したばかりの北飛行場も占領され、その飛行場が米軍から返還されたのは60数年後で、いまは二本の滑走路の道路に挟まれて読谷村役場が建っていた。日本軍は、住民が避難している「ガマ」から住民を追い出したり、混在したりする中で、さまざまな悲劇や殺戮が繰り返されることになるのだ。正面の静かな海の上空には、いまも、米軍の軍用機の離着陸が頻繁である。Kさんの話によれば、日常的には、F15の飛行が一番多いらしいが、この時期、F22も盛んに飛行しているという。最新最速機F22は、2時間半でハワイに飛び、機体には特殊な塗装処理がしてあるので、機体の乱反射で敵機には把握できず、レーダーにも入らないステルス性を持っている。「ほらほら、今度飛んでくるのがF22です」「いま正面に飛んでいるのが空中給油機で、尾翼の後ろに突起しているのが見えるでしょう」と教えられるのだが、“動体視力”が追いつかない!
この上陸地は比謝川の河口でもあり、川の北は読谷村となり、岩場には特攻艇秘匿洞窟群もあったという。この地には2・3年ぶりというKさんは、「偵察」に出てくれて、岩場が崩れ、そこへはたどり着けないとのことで、それはあきらめた。通行可能な海岸線の岩場を進み、もとの児童公園に戻った。
ソテツの実
米軍上陸地の碑の中の一つ
米軍上陸時の写真がパネルとなっている
記念碑近くから比謝川河口を望む
都屋漁港、「いゆの店」へ
そろそろ12時にも近いということで、案内してもらったのが、都屋漁港、読谷村漁業組合経営の「いゆの店」という食堂だった。「安くて、新鮮な魚が食べられますよ。モズクの天ぷらがおいしくて、仕事でここへ来たときは、よく買います」とのこと。「いゆ」とは「さかな」の意だそうだ。Kさん自身はお弁当で、車内で済ますとのことだったが、なんとこの店でいとこ夫妻にぱったり会い、久しぶりだったとのこと。地元の人にも愛されている店のようだった。
店内の厨房に入って注文とのこと、カウンターの奥では、魚をさばく人、てんぷらを揚げる人、盛り付ける人と忙しそうだ。出来上がると小さな窓から名前が呼ばれる。私たちは、海鮮丼「都屋の海人丼」にアーサー汁が付いている定食とお勧めのモズクの天ぷらをお願いした。ふだん食するお刺身とは格段の差、ツマでのっていた海ぶどうの食感もめずらしかった。
都屋漁港
「いゆの店」店内
読谷村漁協のホームページから拝借、私の食した都屋の海人丼とアーサー汁。緑の海ぶどうとイクラが彩りを添える