以下は、『女性展望』(市川房枝記念会女性と政治センター)から、2015年10月初旬締切で依頼を受けた原稿でしたが、初校・再校と編集部の方々には大変お世話になりました。
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戦後70年 二つの言説は何を語るのか
「安倍談話」の中の「私たち」とは
八月一四日の夕方、私は、戦後七〇年の「安倍談話」をテレビ中継で見ていた。ともかく冗長な「談話」というのが第一印象だった。「安倍談話」が取りざたされてから迷走が続いていたが、八月六日には、首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」が、その報告書を明らかにしていた。
まず疑問に思ったのは、主語が「私」ではなく、「わが国」「日本」と「私たち」だけであったこと。「日露戦争が、西洋諸国の植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカ諸国の人々を勇気づけた」、欧米諸国が経済のブロック化を進めたので、「日本は<力の行使>によって解決をしようとして進路を誤り、戦争への道を進んだ」との部分は、日本が戦争への道を歩んだのは他国の植民地支配が原因だったかのようにも聞こえたこと。さらに「あの戦争になんらかかわりを持たない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはいけません」と言い切り、「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に向き合わなければなりません」と続けた個所の文意が不明瞭であったこと、であった。
報告書では課されなかった「おわび」も登場するが、「歴代内閣の立場」を引用するにとどまった。饒舌な上に、「私」ではなく「私たち」を連発していることは、過去の村山、小泉談話との比較で指摘され続けるであろう。
文中には、国内外の戦争犠牲者に対して「痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠をささげ」、「先の大戦への深い悔悟の念と共に(中略)ひたすら不戦の誓いを堅持し」、「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」というくだりがある。「侵略」については、国際紛争を解決する手段として「事変、侵略、戦争」と例示したに過ぎない。懇談会の報告書が示した三つの言葉<植民地支配><侵略><痛切な反省>は、ともかくクリアしたことになる。
しかし、「世代を超えて過去と向き合う」「永劫の哀悼の誠」「不戦の誓いの堅持」の言を弄しながら、なぜ「謝罪」に区切りをつけることになるのか、の整合性がない。なお、三三〇〇文字を超える文章の最後部には「わが国は、・・・(自由・民主・人権といった)価値を共有する国々と手を携え、『積極的平和主義』の旗を掲げ」の「積極的平和主義」の登場も唐突であった。
「謝罪」の行方
さらに、「戦陣に散った人々、終戦後異郷の地で飢えや病に苦しみ亡くなった人々、広島、長崎での原爆投下、東京はじめを各都市の爆撃、沖縄の地上戦などの犠牲者、三百万人の同胞と戦火を交えた国々での犠牲者、戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことを忘れてはなりません」と述べた。その後に「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」という他人事のような一文を見出したとき、首相は、歴史と向き合うこと自体に自信がなく、いわば放棄したい本音が出ているとしか思えなかった。
交戦国の人々の「寛容」や「和解」「善意と支援」への感謝も大事だが、自らの言葉での謝罪がなく、その謝罪さえも続けないとする内容は、外交的にも将来に禍根を残すだろう。当日のNHKの夜のニュースで、政治部の岩田明子記者が、「悔悟」という強いことばを使用した「安倍談話」を称揚してやまなかったことも、一つのニュースであった。また、上記懇談会メンバーである川島真は、今回の談話は「現在の政権が進める政策を歴史的に下支えするという役割を担っていた」と解説している(文献7)。
海外では、韓国、中国政府の批判は抑制的であり、アメリカ政府は「歴代内閣の立場を継承した」ことを歓迎した(『東京新聞』、『毎日新聞』八月一六日)。しかし、海外メディアの『ニューヨーク・タイムス』『ワシントン・ポスト』『フィナンシャル・タイムズ』、「BBC放送」、『フランクフルト・アルゲマイネ』「フランス24放送」は、自分の言葉での謝罪がなかったことと、将来世代が謝罪を続ける必要がないとしたことに批判的であった(文献6 )。
「おことば」からのメッセージ
「安倍談話」との比較において注目されたのが、八月一五日全国戦没者追悼式での天皇の「おことば」であった。
たった三二〇文字ながら、今年、初めて「さきの大戦に対する深い反省とともに」のフレーズに「深い反省」が加わり、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」「戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠につきることはありません」という文章も加わった。これまで、八月一五日の「おことば」は、若干の言い換えはあるものの、ほとんど同文に近かった。
『東京新聞』(二〇一五年八月一六日)において、保阪正康は、天皇の「許される範囲内で示した、
昨今の政治情勢への危惧とも読みとれる」と語り、半藤一利は、こうした表現を加えたのは「集団的自衛権の行使容認や安保法案など、最近の動きに対する懸念があるのだろう。政治的発言が許されない象徴天皇という立場で、ぎりぎりの内容に踏み込んだメッセージではないか」と記す。
また、側近の見方として、激戦地をめぐられた後だけに「徐々に戦争が忘れられていくという、ご心配の気持ちの表れでは」とも伝えた(『朝日新聞』二〇一五年八月一六日)。『日本経済新聞』(二〇一五年八月一六日電子版)では、七〇年を経て、戦前と一線を画し平和国家を志向してきた戦後体制に懐疑的な風潮が出てきたこと、歴史認識をめぐる中国、韓国との摩擦によるナショナリズムの高まりが「深い反省」が加わった要因になっている、と分析する。
海外メデイアでは、『ザ・ガーデイアン』は “The emperor, 81, is banned by the constitution from any political role, but his carefully nuanced words could be seen as rebuking prime minister, Shinzo Abe”(八一歳になる天皇は、憲法上、どんな政治的役割をも果たすことが禁じられているが、彼の注意深く、微妙なニュアンスを持つ言葉は、安倍晋三首相を非難していると受けとれる)と書き出し、『ワシントン・ポスト』は、“Japan’s emperor appears to part ways with Abe on pacifism debate” (天皇は、平和主義政策の論議において安倍と袂を分かつことを表明した)との見出しだった。海外メディアの方が、天皇や首相に対する特別な配慮がない分、客観的で、率直な記述が見てとれた。
「おことば」には寄りかからない
「安倍談話」に比べて、天皇の言葉に重みがあるとするならば、それは、多くの制約の中ながら、皇太子時代からの発言や活動の積み重ねがあったからにちがいない。
たとえば、沖縄についても、皇太子時代の一九七五年七月海洋博出席の折、ひめゆりの塔での慰霊のさなか火炎瓶を投げられた最初の訪問以降、翌年一月同海洋博閉会式、献血運動推進全国大会(一九八三年)国民体育大会、全国障害者スポーツ全国大会(一九八七年)に続き、天皇の即位後は、全国植樹祭(一九九三年)、戦後五〇年の慰霊(一九九五年)、国立劇場おきなわ開場記念式典(二〇〇四年)、全国豊かな海づくり大会(二〇一二年)、対馬丸犠牲者慰霊(二〇一四年)を合わせて一〇回の訪問を重ね、戦没者の慰霊を欠かさなかった。またその都度、沖縄の歴史や現状を専門家や体験者から学ぶ様子も伝えられている。天皇と首相の発言の違いは、それぞれ個人の経験知と品性の違いではないかと察せられる。
日本国憲法の象徴天皇制のもとでの天皇の発言は、政治的機能を持たないが、その発言や振る舞いから天皇個人の信条や心情の一端を伺うことができる場合も多い。しかし、天皇が身を挺して発信する様々なメッセージが、その個人的な姿勢と思いとは関係なく、現実には、どのような役割を果たしているかにも着目しておく必要がある。
今回の「おことば」には、「安倍談話」よりも一歩踏み込んで、国民の平和への願いと戦争犠牲者への気持ちを体現しているという見方は、間違いではないと思う。しかし、皇室の発言や振る舞いを忖度して、必要以上に美化したり、過大評価したりする(文献2、4、5)リスクも考えておかねばならない。護憲と人権を侵しかねない皇統維持、という矛盾をかかえる象徴天皇制において、皇族方の公務における発言や活動は、政治とはかかわらない形で定型化されてきた。
しかし、たとえば、福祉や教育、環境、災害という分野での政策の混乱や予算の切り捨て、環境破壊や災害への対策のひずみに直面する現場に立ち、そこでの思いは、視察やお見舞いの姿勢、「おことば」や記者会見の場での発言、ときには短歌などに反映されることが多い。そのことが、国民との距離を縮め、共感や謝意を醸成し、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割さえ担ってしまうことも少なくない(文献3 )。
今回の「おことば」も、安倍政権の暴走への「歯止め」や「叱正」とも評価することの波及効果には危惧をも覚えるのである。「ご聖断」に心寄せることで、自らを慰撫するにとどまり、国民自らの意思表示や活動が鈍りはしないか、の懸念が残る。また逆に、政権寄りの「おことば」が利用されることも考えられる。旧憲法下の天皇の役割、とくに、昭和天皇の、戦時下では軍部に、占領期にはGHQに利用されたと標榜しながら、招いた結果である「負の遺産」の数々は、天皇も国民も担っていかなければならない覚悟も将来にわたって必要なのだと思う。
一方、民意に沿わない「談話」は、日常的な国民的な活動のなかで、無化することも、言葉の実を取ることも不可能ではないはずである。
<文献>「おことば」、行幸日程、短歌作品などは、基本的に宮内庁HPと文献1に依拠した。
1.宮内庁編『道 天皇陛下御即位十年記念記録集』(NHK出版 一九九九年一〇月 )
2.島田雅彦『おことば 戦後皇室語録』(新潮社 二〇〇五年六月)
3.拙著「象徴天皇の短歌、環境・福祉・災害へのまなざし」ほか『天皇の短歌は何を語るのか 現代短歌と天皇制』(御茶の水書房 二〇一三年八月)
4.「NHKスペシャル 日本人と象徴天皇一~二」(二〇一五年四月一八日・一九日放映)
5. 矢部宏治『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』(写真須田慎太郎 小学館 二〇一五年六月)
6.門奈直樹「総括・戦後70年談話~他国のメデイアと日本の市民は何を語ったか」(『マスコミ市民』二〇一五年一〇月)
7.川島真「安倍談話とその歴史認識」(『UP』 二〇一五年一〇月)
<天皇・皇后 短歌作品より >
一九七六年(坂)
みそとせの歴史流れたり摩文仁(まぶに)の坂平らけき世に思ふ命たふとし(明仁皇太子)
いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく(美智子皇太子妃)
一九九四年(硫黄島)
精根を込め戦ひし人未(いま)だ地下に眠りて島は悲しき(天皇)
一九九五年(平和の礎)
沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり(天皇)
二〇〇〇年(オランダ訪問の折りに)
慰霊碑は白夜(びやくや)に立てり君が花抗議者の花ともに置かれて(皇后)
二〇〇一年
知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず(皇后)
二〇一二年(沖縄県訪問)
弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く(天皇)
(内野光子・歌人)(『女性展望』No.677 2015年 11 ・12月)