8月29日の下記のブログ記事でも紹介いたしましたエッセイです。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/08/post-fdc8.html
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沖縄には、天皇の歌碑がいくつあるのだろう。今回、三つを訪ね、その背景を考えた。
那覇に着いた当日、夕方というのにともかく日差しが強い。瀬長亀次郎の資料館「不屈館」と「対馬丸記念館」に立ち寄ったあと、波の上宮へと向う。
ここには、昭和天皇と明治天皇の歌碑がある。参道の直ぐ左手に、「折口信夫(釈迢空)先生の歌碑(歌碑建設期成会)」(一九八三年建立)の表示があり、『遠やまひこ』(一九四八年)収録の一首だった。
・なはのえに はらめきすぐる ゆうたちは さびしき船を まねくぬらしぬ(釈迢空)
続いて、昭和天皇晩年の歌を上段に、下段に「おことば」が刻まれた碑があった。
・思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(昭和天皇)
「おことば」は、病気のため沖縄国体出席を断念した天皇の代わりに、一九八七年一〇月二四日、皇太子が代読した一文であった。
「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。・・・」
昭和天皇は、太平洋戦争末期、沖縄捨て石作戦により地上戦となることを放置し、多大な犠牲をもたらした、戦後にあってはいわゆる「天皇メッセージ」によって、沖縄の米軍基地が固定化した。そんな経緯を考えれば、沖縄に、歌碑など立てられるはずもないと思うのだが、神社だからこそだったのだろう。複雑な思いで、参道を進むと、目に入った銅像は、明治天皇だった。その背後には、弓なりの壁が回らされ、左右に縦長の色紙がはめられたような形で歌が二首刻されていた。
・たらちねの親には仕へて まめなるが 人の誠の始めなりけり
(明治天皇)
・わが国は 神の末なり神祭る 昔のてふり 忘るなよゆめ
(明治天皇)
二首とも、沖縄とは直接関係がない。もちろん明治初期に、天皇が進めた「琉球処分」に触れるような歌があったのか、選べなかったのか、私には、まだわからない。この二首は、明治百年(一九六八年)を期して計画され、一九七〇年に建立されていることがわかった。ちなみに、一八七二年、琉球藩設置にあたり「下賜」された短歌がつぎの二首であ.った。沖縄はこれ以降、過酷な決断を迫られ
ながらも抵抗するが、明治政府は武力をもって首里城の明渡しと廃藩置県を強行した。
・けふさらに久しき契むすひてよいはにかかる滝の白糸
(「水石契久」)(明治天皇)
・立ちならふ庭の梢のはつ紅葉いよいよそはん色をこそまて
(「初紅葉」)(明治天皇)
明治政府による皇民化教育が進められるなか、一八九〇年、琉球八社の中心的役割を果たす波の上宮が「官幣小社」となり、神道布教の拠点ともなっていた。この日、出会った参拝客は、ここでも、中国語を話す若い人たちが多く、もちろん、これらの歌碑には、関心を示さない。
明仁天皇の歌碑がある伊江島に渡ったのが、慰霊の日の二日前だった。那覇から高速バスで北上すること二時間弱、フェリーの発着所である本部(もとぶ)港で下車、伊江島へは、三〇分の船旅である。
島のタクシーの運転手さんに回りたいところを地図で示し、ルートはもちろんお任せした。ただ、どうしても訪ねたかったので、「城山(島の中心に突起する一七二メートル)の中腹に、天皇の琉歌の歌碑がありますよね」と念を押すと、「たしか、そんなものがあったかも知れない」と気のない返事だったが、たしかに、中腹の広場に、それはあった。
・広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事
(明仁皇太子)
明仁皇太子夫妻の最初の沖縄訪問は、一九七五年七月の海洋博開会式出席のためであった。その折、ひめゆりの塔における火炎瓶事件が発生している。伊江島へは、翌年一月一七日、海洋博閉会式に出席した折に立ち寄っている。歌碑は、「皇太子殿下・皇太子妃殿下御来村記念碑」と並んだ小ぶりのものだった。その年の四月二九日に建立とある。
伊江島といえば、一九四五年三月二三日から米軍の空襲が始まり、四月一六日に上陸を開始、日本軍は、住民も戦闘に巻き込み、四月二〇日には壊滅状態となった。島の住民の半分にあたる一五〇〇人、兵士が二〇〇〇人、約三五〇〇人が犠牲になった島である。住人は、ただちに慶良間島や大浦崎収容所に強制移住させられた。島に戻ってきた矢先、一九五五年、米軍が基地建設のために「銃剣とブルドーザー」による土地の強制収用が始まったという苛烈な歴史を持つ。阿波根昌鴻らを中心とする伊江島の土地を守る運動は、まさに血のにじむ闘争であった。現在も、米軍基地は島の三五%以上を占め、おもに、オスプレイの離着陸、パラシュート降下訓練などが日常的に行われている。
皇太子夫妻の伊江島訪問当時、過剰警備についての地元紙の報道はあるが、来村記念碑や歌碑の報道は見当たらない。そして、『伊江村史』や役場が発行する資料にも、詳しく記載されていない(「レファレンス事例詳細」沖縄県立図書館提供、二〇一一年一一月)。今回、島で入手した観光案内パンフなどにも、一切言及がないし、地元に伝わる民謡の「歌碑」巡りでも、対象とはなっていない。皇太子夫妻の来村について、当時を知っている人々は、苦々しく、複雑な思いがあったにちがいなく、いまの若い人たちは、もはや関心がないのかもしれない。
本島に戻るフェリーからは、恩納岳に連なる山並みが美しかった。万座毛からその恩納岳を望んだ天皇の歌の碑があると聞いた。
・万座毛に 昔をしのび 巡り行けば 彼方恩納岳 さやに立ちたり(明仁天皇)
二〇一二年一一月全国豊かな海づくり大会の折の短歌である。前日に訪ねた「不屈館」に展示されていた、瀬長亀次郎夫人のフミの短歌を思い出していた。
・歌の山 恩納岳かなし 米軍の 砲弾の音 小鳥も住めず(瀬長フミ)
(新日本歌人2016年9月号所収)
関連の紀行記録は次の記事にもありますので、ご覧ください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4264.html(7月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-a2b2.html(7月29日)