録画も取らず、メモもしっかり取っていないのだが、オーストラリア、ブリスベンの捕虜収容所で行われた捕虜尋問の模様を伝えた、13時間、120枚の録音盤をアメリカ公文書博物館でNHKが見つけ出したらしい。その全容は、視聴者にはわからないが、伝えられた限りで、進めることにする。 日本の事情にくわしく、日本語に堪能な尋問官が、捕虜1000人以上に面接、尋問して、軍隊内での命令系統や本人がなした行為や心境などを尋問している。番組で聞いた限り、事務的ではあるが、かなり「紳士的に」に質問しているのがわかる。そして、捕虜自身にとっては苦渋が伴うのは当然で、なかなかすんなりと進まない中で、いわば心理的な配慮をなされながら、徐々に心を開いていく様子が見てとれる構成になっている。ナレーションにもあった通り、日本人兵士は、捕虜になることを「辱め」とする教育をして、いわば自決を強要はしたが、捕虜になった後の教育はしていなかった、という側面はあったろう。相手国が、諜報機関からの情報とともに、捕虜から引き出す情報をデータベースとして、日本国、日本軍の状況は手に取るように、把握していたと思われる。
私が、最も関心を持ったのが海軍主計大尉・稲垣利一のたどった道だった。海軍経理学校では、中曽根康弘と同期だったが、1942年8月、ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指す作戦に参加、武器も食料も断たれた悲惨な中で、マラリアで倒れた。敵兵が近づいたときに、拳銃を2度こめかみに当てて自殺を図ったが、泥水に濡れた拳銃は機能せず、捕虜となっている。英語力はじめその能力をかわれ、尋問官からは、諜報活動への協力を依頼される。半年間の苦悩のすえ、極東連絡局(Far Eastern Liaison Office)FELOの一員となって、ジョージ・イナガキとして、投降を呼びかけるビラの制作などにかかわったという。
番組の中では、組織的な関係がわかりにくかったので、番組を聞いた後、かつて読んだことのある『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』(土屋礼子著 吉川弘文館 2011年12月)を思い出し、関係個所を再読してみた。それによれば、極東連絡局は、1942年6月19日オーストラリア地上軍総司令部の命令により設立されたが、後マッカーサー総司令官の指示により、連合国軍情報局のセクションから独立、ブリスベンに本拠を置き、前線や連合国軍翻訳通訳部(Allied Translator and Interpreters Section)ATISと連絡を取り野戦隊支援のための兵站、作戦にかかわるビラの制作を担当した。対日宣伝ビラの目的は西南太平洋地域の日本軍の士気の低下と日本軍占領地域の現地住民の連合軍支援にあった。ビラ制作のスタッフは、かつて日本に住んでいたとか、領事であったとか、日本とは何らかの縁がった人たちで、その上に、5名の日本人捕虜が仮釈放の身でビラ制作に加わった、とある(前掲書49頁)。その一人がイナガキであったのだろうか。
稲垣は、尋問官に応えて、「多くの日本人は政府と国民の区別ができない」という趣旨のことを述べ、「真の愛国心があるのならば、あなた自身の命を大切にすることだ」というメッセージを残しているという。「そしていつか、政治や戦争ではなく、人間として分かり合えることを願っている」とも。
番組において、稲垣利一は、1945年11月に帰国、翻訳などの仕事に携わっていたが、11年前に87才で亡くなったと報じる。遺族の姪・甥の方は、一切戦時中のことは語らなかったということであった。翻訳ということだったので、国立国会図書館の蔵書検索をしてみると、以下数点の文献が見出された。1952年から58年にかけて、「中央公論」や「改造」に執筆していたことがわかる。その後はどうされていたのだろうか。
・英国学生代表団の訪ソ報告書 稲垣 利一 訳「中央公論」 67(11) 1952-10
・マッカーサー元帥罷免の真相 稲垣 利一 「改造」 33(6) 1952
・アメリカに欠けているもの オッペンハイマー R著、稲垣 利一 訳 「中央公論」 73(3) 1958-03
・マーク・ゲイン西班牙へ行く ゲイン マーク著、稲垣 利一 訳 「中央公論」 67(4) 1952-04
・レバノン進駐後に来るもの ボールドウィン ハンソン W著、稲垣 利一 訳 「中央公論」 73(9) 1958-09
番組では、ルソン島でゲリラの処刑をしたということを問われた20歳の兵士の「話したくない、思い出したくない」「今から考えるとばかばかしいことばかりだ」との声も残されていた。さらに、尋問官に問われて、「あしたは話す」と約束したその日に命を絶った26歳の兵士もいた、とも報じられた。
集合写真で並んでいた中曽根の歩んだ道を、稲垣も見ていただろう。その思いは如何ばかりであったろうか。また、それを知った私たちは、中曽根の罪悪を、そして今日の日本に至らせた私たちの責めを思わずにいられない。家族にも語れず、ひそかに亡くなっていった人々を思うと、決して繰り返してはならない戦争の過酷さに思いはいたる。