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Channel: 内野光子のブログ
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日曜日は、池袋第五小学校のクラス会でした

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 幹事の方々のお世話で、4年ぶりのクラス会だった。2年持ち上がりの担任のO先生の米寿のお祝いの会でもあり、ホテルの一室の壁には、幹事手づくりの「会次第」が貼られていたが、「旧池袋第五小学校」と「旧」が付いているのが、やや寂しくも思えた。すでに2005年、大明小学校との統合で「池袋小学校」と校名が変わっている。集うもの、昔の児童14人と賑やかであった。

O先生は、相変わらず絵画の制作にいそしみ、お元気そうで何よりだった。長い間所属されている「白日会」では、年会費が免除される特典に浴する年齢になられた由、感慨深げに話された。健康の秘訣はと問われ、まだ人が出歩かない早朝に、ほぼ毎日「歩く」ことではないか、とも語っていた。言うは易くしてと、わが身を振り返るのだった。

 私たちのクラスは、先生が教職について初めて送り出した卒業生だったという。先生が詰襟の学生服で写っている遠足の集合写真もある。たまたま隣になったOくんは、だいぶ前、先生の個展が地元の三越で開かれているのを知って出かけたところ、数十年ぶりの対面にもかかわらず、名乗る前に、先生から名前を呼ばれて、驚くとともに感激したとのこと。また、Sくんは、遠足で高尾山の頂上からの眺めに、隣の先生に「スゴイね、お父さん」と思わず叫んでしまってはずかしかったけれど、思うに、五人兄弟で、父親との接触が少なかったこともあって、たしかに先生は「お父さん」のようでもあったと。Tさんは、先生が風邪かで休まれたときに、放課後、何人かで、先生の住まいを訪ねて、小さな家の節穴から中をのぞいて帰って来てしまったとのこと、いや、私の記憶では、先生の家に皆で上がらせてもらった覚えがあるので、別の時だったかもしれない・・・。そんな話で盛り上がったが、まるで、『二十四の瞳』のような、と思ったものである。といっても、私たちのクラスは卒業時、55人だったので、「一一〇の瞳」ということになりそうだ。先生も、子どもたちの親たちも、苦難の時代、昭和20年代、池袋の話である。 

 

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池袋東口、パルコ(旧丸物百貨店)が途切れ、左に西口へのガードを見て、第2パルコの先が、線路沿いの池袋駅前公園となる。この公園の位置こそ変わらないが、当たりは一変している。クラス会会場は、右手の第一イン池袋だった。もちろん、こんなところにホテルがあるのも、ルノアールが入っているのも知らなかった。正面が、西武池袋スケートリンク跡に建てられた清掃工場の煙突で、これはかなり遠くからも見られる高さである。スケートリンクの手前には、人世座系列の名画専門の「文芸地下」があった。そういえば、第一インの手前の角から、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館という映画館が並んでいたはずである。今は、ビッグカメラとヤマダ電機が並んでいる。先生が長い間個展を開いていらした池袋三越は、今はヤマダ電機の本館である

 


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