以下は、上記8月号の吉川宏志氏の文章への私の反論です。その経過は、つぎの当ブログ記事をご参照ください。なお、吉川氏の私へ反論、再反論の文章は転載できませんので、あわせて『うた新聞』の吉川氏の文章をお読みくださればと思います。
~~~~~~~~~~~~~~
『うた新聞』』(いりの舎)10月号、吉川宏志氏の「<いま>を読む」(6)内野光子氏に答える」は、私への再反論でした
私が会員である『ポトナム』7月号の「歌壇時評」(当ホームページに「時代の<せい>にするな」として登載)に対する吉川氏の反論が、『うた新聞』8月号「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」として発表されました。発端となった「歌壇時評」は7月30日の記事を、また経過は、8月9日の記事をご覧ください。
なお、私の再反論も、『うた新聞』11月号に掲載予定です。
2016年7月30日 (土)
2016年8月 9日 (火)
「うた新聞」吉川宏志「<いま>を読む~批評が一番やってはいけない行為」という私への反論
~~~~~~~~~~~~~~~
吉川宏志氏「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」に応える
(『うた新聞』2016年9月号所収)
本紙八月号の上記記事は、『ポトナム』七月号掲載の私の歌壇時評への反論だった。八月八日、その記事の名前表記にミスがあったということで、編集部と執筆者からお詫びの連絡が入り、その際、反論の機会をいただくことになった。
私の『ポトナム』の歌壇時評は、私のブログにも再録している(「内野光子のブログ」「《時代》の所為(せい)にするな~私の歌壇時評」(二〇一六年七月三〇日)は、京都「時代の危機に抵抗する短歌」と東京「時代の危機と向き合う短歌」という二つのシンポジウムについて書いている。
たしかに、私は、二つのシンポに参加してはいないが、時評の前半を使って、京都での呼びかけ人吉川氏による『現代短歌新聞』(二〇一五年一一月)、東京での呼びかけ人三枝昂之氏による『現代短歌』(二〇一六年三月)の報告から引用して、その内容を伝えている。私は、これらの報告を読んで、「時代の危機」が「言葉の危機」に置き換えられていくことに危惧を覚えたことを率直に述べたのである。この二つのイベントについて、多くのメディアに掲載された記事や感想の大方は、好意的なものであったことも承知している。
私の時評の後半の三分の一では、シンポに参加した二人の歌人が書いている感想をブログ記事と雑誌記事から引用紹介した。最後に、内野のシンポへの感想として「私には、壇上の歌人たちが『時代に異議を申し立てた』という『証拠』を残すためにこうした発言の場を設けたように思われた」と記し、その文章に続けて「一過性に終わることのないように本気度を見せてほしいと思った。近く記録集が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う」と結んでいる。
ところが、吉川氏の文章は、私が、参加したI氏の感想として引用した部分と私の地の文とをないまぜにし、引用の際のカギかっこ「 」の使い方が不明確であった。その上、内野の時評で、二つのシンポについて指摘した「危惧」には、何ら応えてはいない。
さらに、吉川氏は後段で、(内野が)「天皇制を絶対的な悪と考えている」といい、「天皇制への賛否によって、善悪を割り切るような思想を、私は最も憎む」と結ぶが、私は、今回の時評で、「天皇制」にも言及しておらず、これまでの著作で「絶対的な悪」という言葉も使ってはいない。私が言い続けてきたのは、「天皇」というシステムと日本国憲法が基本理念とする主権在民・平等主義との矛盾であり、天皇・皇室をめぐる権威や国民との「親しさ」を利用しようとする権力に対する「現代短歌」の無防備と「現代歌人」の節操の無さであった。事実を積み重ね、実証に努めてきたつもりである。
また、「主張のために真意をねじ曲げて解釈する行為は、批評が一番やってはいけない」とも書いて、内野が何をどうねじ曲げて解釈しているのかも判然とせず、これこそ、印象批評の憶測の域を出ない一文ではないかと思った。
なお、吉川氏は、「NHKや新聞の方が、『政治的中立』を名目にして、政府に批判的な論者を排除しようとしている時代なのだ」とし、「内野はそこが分かっていない」とも断じている。彼のメディアへの現状認識は、私も同感である。だから、私もこれまで、退職後は、メディア論を少しく学び、ここ10年は、たとえばNHKの改革を目指す市民活動に参加し、個人的にも、具体的な報道番組や記事に際して、その都度、文書や電話などで抗議や申し入れを続けてきた。その一部は、ブログや著作などでも報告している。上記のように断ずる前に、多忙とはいえ、多少なりとも確認するのが、評者としてのルールではなかったか。「伝聞情報で憶測を書く」という禁じ手に自ら走ってしまったのである。
私は、歌壇には、もっと論争が起こればいいと願っている。異なる意見を持つ者との議論が民主主義の根幹であり、「反論に値しない」と無視することの恐ろしさにも思いが至る。ただし、論争するのであれば、①論難されている当事者がまず受けて立つこと ②反論は、相手の論の核心部分を突くこと ③相手の文章の引用や先行研究の引用は、明確に表示すること、などが基本的なルールかと思う。①については、歌壇における論争が、いわば「保護者」同士や「弟子筋」同士の<代理>論争的な側面を持つことも多々あるからである。もちろん多くの人が参入することは大いに望まれるところである。②については、論点をずらしたり、末節を切り取ってきたり、過去に遡ったりすると焦点が拡散し、「愚痴」にもなりかねないからでる。③も基本的なマナーだが、今回の吉川氏の本紙記事における引用の表示が曖昧だったことは前述のとおりである。