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Channel: 内野光子のブログ
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雨の霞ヶ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(2)

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予科練平和記念館へ

 高塚夫妻は、美術館に残られたので、私たち3台を連ねて355号線を戻り、今度は、霞ケ浦の西岸に沿って、美浦、「みほ」と読むらしい、を経て、一時間ほどで、高い鉄塔が見えてきた。陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校である。広い駐車場の向うの予科練平和記念館は、白い大きな四角い窓が特徴的で、銀色の積み木を重ねたような建物だった。なかは天井が高く、明るくホールを中心に、予科練の七つボタンにちなんで、リーフレットにあるように「入隊」「訓練」・・・「窮迫」「特攻」の七つの展示室に分かれている。「入隊」では、各地から難関な選抜を経て入隊する少年たちの意気込みが、「訓練」では、軍事や教養を含め、飛行訓練へと励んだ様子が伺われる。「窮迫」の部屋は、映写室で、1945610日の阿見町空襲が7分間の映像で伝えられ、当時の練習生や隊員、職員の方の証言映像で凄惨な様子が語られる。米軍の計画的な阿見町の軍施設爆撃だったが、町全体が壊滅的な被害を受け、374名の犠牲者が出たという。ただ、映画の監修者に遊就館(靖国神社)と海原会の名があったのには少し気になったところであるが、どの部屋の展示も、いろいろ工夫がされていた。

 予科練平和記念館は、阿見町の運営で、今年で開館5年となり、つい最近、記念行事が終わったばかりのようだった。私たちが見学した1011日の日付で、記念館のホームページの「館長日記」には「予科練平和記念館5年間の歩み」が記されていた。http://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?cat=3"

それによれば、長い準備期間を経て、201022日にオープンし、歴史調査委員を擁し、さまざまな取り組みによって、資料や証言の収集、その展示、継承に力を注ぎ、現在に至っている。アーカイブも整いはじめ、検索もできるようになっているのを知った。

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予科練平和記念館全景

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入館チケットとリーフレットの一部

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展示室「入隊」パンフレットより

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七つの展示室のテーマ、リーフレットより

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展示室「訓練」手前に見えるのはハンモック

予科練と特攻 

 そもそも、「予科練」とは、「特攻」とは何だったのか。私の世代すら、むかし見た映画の影響からだろうか、七つボタン、白いマフラーを連想し、「予科練くずれ」「特攻くずれ」の言葉が頭をよぎる。

 予科練とは、海軍飛行予科練習生の略で、旧海軍が、若いうちから優秀な搭乗員を養成しようということで、1930年、横須賀の海軍航空隊に設置された飛行予科練習生制度である。1939年には、霞ケ浦海軍航空隊に移設され、全国の予科練教育の中心的な役割を担うことになった。当初は、全国の14歳から17歳の少年たちを対象に、選抜試験により人材を集め、軍事・教養の基礎から飛行訓練を行った。しかし、戦局が悪化するにつれ、とくに、太平洋戦争下、その末期には、教育期間も短縮されていった。さらに、壊滅的な戦力を補うべく、海軍は「特別攻撃隊」という作戦を考案し、人間魚雷回天、水上特攻艇震洋、特殊潜水艇海龍、人間爆弾桜花など人間自体を兵器とし、目標に突撃するものだが、目標に届く前に撃墜されたり、自爆したりして、その戦果は、微々たるものに過ぎなかった。しかしその要員を補ったのが、おおく予科練からで、その戦死者は2800名に及んでいる。その中には、194412月「特別丙種飛行予科」コースが新設され、本名と日本名と二つの名前を持つ朝鮮人、台湾人の若者たちが含まれていた。展示室「特攻」の映像のラストシーンは、出撃直後、モールス信号が途絶えたときが、彼らの死の瞬間であったとことを強調するものだった。そして、記念館のパンフレットでは、「当時の緊迫した情勢のなかで、志願しなければならないような状況があったことは想像に難くない」との解説がなされていた。「特攻」を考案したとされる軍部の幹部たちは責任を取ることもなかったのである。

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人間魚雷「回天」

 

土門拳と予科練

 エントランスやホールでは、予科練の少年たちの訓練や暮らしを伝える壁いっぱいの写真やパネルが目をひく。その写真はすべて土門拳によるものだった。「筑豊の子どもたち」や「古寺巡礼」などで、その名を知るが、予科練とはどんな関係だったのだろうか。写真は、どれも少年たちの躍動的な身体、真剣なまなざし、やさしい笑顔を活写していて、魅力的な作品が多かった。

 土門拳(19091990)のカメラマンとしてのスタートは、上野池の端の写真館であったが、1935年、名取洋之助の日本工房には入り、海外向けの日本紹介雑誌「NIPPON」の仕事をしていたが、1939年には外務省の外郭団体、国際文化振興会の嘱託となった。それに先立ち、1938年には、田村茂、藤木四八、浜谷浩らと青年報道写真研究会を立ち上げている。近頃、太平洋戦争下の婦人雑誌を調べることが多いが、なかでも『婦人画報』などのグラビアで、土門拳は、先の田村、藤木、浜谷らと一緒に頻繁に見かける写真家の名前だった。土門の人物写真や報道写真は、その人間くささとしたたかさが、他と少し違うように思ったものだ。記念館のリーフレットによれば、展示されている土門の作品は、たまたま入院していた練習生が身近に持って出ていた42枚が処分を免れたものだったという。

記念館が開館して間もないころ、産経新聞の茨城版で連載していた記事が『土門拳が封印した写真―鬼才と予科練の知られざる交流』(倉田耕一 新人物往来社 20107月)として出版されている(未見)。この本の紹介によると、土門は、海軍省の依頼により、19446月から数週間、甲種13期生の31(入野)分隊第4班の一員となり、練習生と起居を共にして撮影し、ときには少年たちにはきびしい注文も付けたという。それほどまでにして撮影した労作を、戦後、みずから封印し、焼却されたとも言われている。

予科練平和記念館の初代糸賀富士夫館長が、酒田市の土門拳記念館を訪ねたとき、予科練の写真が一枚もなかったと記している(「土門拳を訪ねて」201098http://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=1298 )。たしかに、土門拳記念館のホームページの「年譜」では、予科練での撮影の事実はどこにも記されていない。その年譜をあらためて見てみると、1943年の個所には、『日本評論』9月号における「対外宣伝雑誌論」のなかで宣伝グラフ誌を批判し、客観的真実に立脚した報道を提唱して、発禁になった旨の記述があり、1944年は空白のまま敗戦後に続くのである。

いったい、どうしてなのか。戦時下の大政翼賛的な作品や活動を、不都合なこととして隠蔽する芸術家や論者は多い。しかし、「土門拳まで、お前もか」の思いは去らない。戦前・戦後を通して残した作品は、すべて公開し、自らの評価、第三者の評価にゆだねることも、表現者としての責任ではないかと思っている。「客観的真実に立脚」しなかった、「後ろめたい」というならば、なおさら、そうしないことには、歴史に向き合い、過去から学ぶことを放棄することと同じになりはしないか、と。いつの日か、どこかの土蔵の隅から、あるいは手つかずの段ボール箱から、封印したという作品群が見つかりはしないかと祈るような気持ちもある。 

少年たちの死

「明日は外出です。金を一円もって、饅頭食って汁粉を食って、大福食って芋食って、アンミツ食ってあべかわ食って、倶楽部へ行って火鉢にでもあたっている予定です」と手紙に書いた福山資さんは、佐賀県出身、甲種第5期練習生で、1939年入隊、1942131日卒業、台南航空隊から蘭印に飛び194232日に戦死、18歳だった。この手紙を読んで、思い出したのが、陸上自衛官でマラソン選手だった円谷幸吉の「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ…」で始まる遺書だった。

予科練平和記念館の隣に広がる陸上自衛隊土浦駐屯地の一画にある雄飛館は、予科練戦没者の遺書・遺品約1500点を収蔵、展示し、予科練出身者、遺族で構成される「海原会」が管理している。壁いっぱい、展示ケースいっぱいに肖像写真と遺書をひたすらに並べた光景は不気味でさえある。むしろ解説などは不要なのかもしれない。その記録から、彼らの死の実態を知り、遺された私たちが今できることを考えなければと思う。

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 武器学校敷地内にある雄飛館に向かう

予定よりやや早めに、雨もすっかりあがり、茜色の落日に向かって帰路についた。


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